避難者の今(2024年2月時点)
(1)ウクライナ東部出身 40代女性
私たちが日本に来てから約1年経ちます。
避難することになったきっかけは、家のすぐ近くに爆撃があり、多くの人々が犠牲になったことです。そこに住み続けることに恐怖を覚えたのです。日本には娘がいたので彼女を頼って来ました。
今では来日した当初よりもだいぶ行動範囲が広くなってきました。私は12月から週4回日本語教室に通っていて、もうすぐ3ヶ月のコースが修了します。ひらがなやカタカナは全て書けますが、話すことはまだ難しいです。日本語を勉強するのはとても楽しいし、ためになるので終わってしまうのが残念です。また、日本語教室の後で仕事をしていますが、職場の方々はとても親切で気持ちよく働いています。午前中は日本語教室に行き、午後からは仕事で帰りが23時近くなることもあります。帰宅後は日本語教室の宿題や復習をしています。自転車で通学・通勤しているので、雨が降ると大変です。
母も以前週1回3時間の日本語教室に通っていましたが、受講期間中に歯が急に痛み出し、その治療のために途中から通えなくなり、学習が中断されてしまいました。しかし、勉強したとしても年金生活者の年齢なのでなかなか言葉を覚えることができません。また、母は一人でバスや地下鉄を使って移動するのも難しいのですが、それでも何回か行き来して覚えたバスには一人で乗って出かけられるようになりました。今、月1回ほどレストランでウクライナ料理を一般の方々に提供する機会があるのですが、そこで厨房スタッフとして働くこともあります。また、何人かの避難民との合唱サークルで歌を歌っています。今も公演に向けて週に一回ほどリハーサルに励んでいます。
私たちは、週末にはウクライナの戦争反対の集会やいろいろなイベントに参加したりしています。私にとって日本で1番問題に感じているのは、言葉です。母にとっては仕事です。ウクライナにいればケガをした兵士のお世話をしたり、何かしらできることがあるのに、自分は今日本にいて、「いったい何をしているのだろう」ともどかしく感じています。今は家で動画を見たり、ラジオを聴いたり、料理をしたりして過ごしていますが、本当は何か仕事をしたくてたまらないのです。何かをしていないと戦争のことを思い出してしまうという理由もあります。私も何もしていないふとした瞬間に、訳もなく急に涙があふれてくることがあります。
それでもどうにか前を向いて生きようとしています。母は、時々血圧が高くなったり、脚や股関節が痛みますが、私は健康です。
日本の皆さんには私たちを支援していただき感謝しています。ありがとうございます。
(2) ウクライナ西部出身 10代男性
私は戦争が始まった当初は、ウクライナを離れたくなかったのですが、その後避難することを決めた経緯についてお話しします。
戦争開始後の1年間、私は多くのボランティア活動をしていました。どれも大したことではないのですが、軍のために迷彩ネットを編んだり、ロケット弾から守るために建物を強化したり、食糧や生活必需品を運ぶのを手伝ったりしていました。私は自分なりに計画を立ててそれに沿って行動していました。ところが、家族の事情から別のウクライナ西部の街に住んでいる兄のもとに引っ越すことになりました。しかし、その街でも砲撃がますますひどくなったので、私は兄と共に避難することを決めました。まずポーランドで3ヶ月暮らし、日本に避難する準備をしました。なぜ私たちが日本を選んだかというと、元々兄は、日本の文化に魅了されていて、将来は日本に住むことを夢見ていました。また私も、外国でその文化を学ぶために少なくともその国に1年間ほど住んでみたいと思っていたのです。しかし、このような理由でそれが実現したことは残念で仕方がありません。
日本に到着すると日本の皆さんが私たちをとても温かく迎えて下さいました。食事や滞在する宿舎を提供して下さり、また日本語を学ぶ機会も与えていただきました。このかけがえのない支援にとても感謝しています。
私は今、ウクライナの教育機関のオンライン授業を受けています。しかし、それには多くの時間と労力が必要なので、普段はそれ以外に何かをしたいという気持ちにはなかなかなれません。でも、私はめげずに強く生きていこうと思っています。日本に暮らす上で私にとって言葉以外は何の問題もありません。日本とウクライナは、食べ物から始まり、人々との付き合い方や社会規範まで何もかもが違います。料理をする時、あまりにも食材が違いすぎて困ることもありますが、それは私にとってかえっていい点でもあります。そのおかげで新しい料理を覚えたり、また以前には思いつかなかったような料理も作れるようになりました。
そして一番の違いは、人々です。どう表現したらいいかは分からないのですがー。
でも、私は日本の全てが好きですし、生活にもすぐ慣れました。とにかく日本が好きなので、とりあえずしばらくは日本にいたいと思っていますが、将来のことはまだ分かりません。
(3)ウクライナ東部出身 50代女性
私にとって戦争は2014年の春に始まりました。私は8年以上、国境付近で戦争が行われている中で暮しました。その間ずっと砲撃を受けたり、人々が亡くなるのを間近で見てきました。2022年3月、さらに攻撃が強くなりました。約20日間砲撃にさらされ、電気も通信手段も食料もなく、またマイナス15度の中、暖房もない中で過ごしました。その間救援活動はなかったので、砲撃をすり抜け、生きるために食料や水を探しました。
しかし私は奇跡的に生き延び、砲火の中、徒歩で町から脱出しました。私はこれまで2度にわたって全財産と住居を失ったのです。日本に避難することを決めたのは、元々日本の歴史や文化に興味があったからです。私はポーランド経由ではなく、複数の国を経由して自力で日本に辿り着きました。
日本に来てから1年余り経ちます。日本政府、県や市は、私に理解と配慮をもって接してくれました。現在、私には市営住宅が提供され、無印良品からはベッド、食器、洗濯機、寝具などの購入を支援していただきました。また、様々な方々のおかげでいろいろなイベントに参加することができました。温泉、コンサート、水族館などに行く機会もいただきました。その時間は、私がこれまで体験し耐え抜いてきた事実をほんの少しの間だけでも忘れることができるのです。
私が抱えている問題は、言葉の壁と専門の仕事に就けないことです。そして、何よりウクライナにいる家族に会えないことです。
名古屋の皆さんはとてもフレンドリーなので、私はとても気持ちよく生活をしています。仕事のない日には散策をし、草花や木を眺め、観光名所、寺院を訪れたり、展覧会やコンサートに行ったりもします。もちろん日本語の勉強もします。
私はもうウクライナに戻らないと思います。住む家がなくなり、帰る所がないからです。小さなスーツケース一つのみを持ち日本にやって来ましたが、それが私に残された全てなのです。これから私は、何もない状態からまた新しい人生を再スタートさせます。私のためにこれまで関わって下さった方々、今まさに関わって下さっている方々皆様に感謝します。
(4)ウクライナ中部出身 10代男性
私は、戦争が始まる前から、日本へ行ってみたいという思いがありました。元々音楽が好きなのですが、日本の楽器である琴の音楽に惹かれたのです。それに伴い、言葉そのものにも関心を持ち学び始めました。最初は家庭教師に教わり、さらに大学で学び続けました。
戦争が始まってからは両親も私が日本へ行くことを後押ししてくれ、色々な面でサポートしてくれました。なぜなら、ウクライナにいると危険だからです。私が住んでいた家の800m先のショッピングセンターにミサイルが落ちたこともあります。今でも、時々同じようなことが起きているのです。
日本では大学で日本語の勉強をしています。弓道サークルにも入って、日本の友達もできました。大学では体育館が開放されているので他のスポーツもできます。大学からいろいろなサポートを受けているので問題はないですが、私は学生として日本に来たので、他の避難民の方々が受けているような経済的支援は受けられないのです。ですから、今イタリア料理レストランでアルバイトをしています。お客さんに注文を取るのはまだ少し難しいですが、この仕事は語学の勉強にもなるので気に入っています。
先のことは分からないですが、しばらくは日本に住み続けたいと思っています。
(5)ウクライナ東部出身 40代女性
私たちは、2022年6月に日本に避難して来ました。最初は名古屋市外に住んでいました。元々ウクライナでは夫婦共に家のリフォームなどの改装業に携わっていたので、日本でもそれができないかと考えていましたが、ウクライナと違い、日本ではなかなか需要がなくうまくいきませんでした。それで、私は家でネイリストとして仕事を始めました。夫は個人的にある会社から声をかけていただき仕事を始めました。彼は日本語が話せませんでしたが、翻訳機をうまく使いながらコミュニケーションを取っていました。3人の子どもたちは、小学校に通い出しました。最初の数ヶ月は、日本人の生徒とは別に日本語学習クラスで言語を学びました。しかし、高学年になると早い段階で他の日本人の生徒と同じように他の科目の授業にも出席しなくてはならなかったのです。そのため、低学年だった末っ子は結果的に一番長く言葉を学習することができたので、今、言葉の面で一番問題がないのは彼女です。言葉が通じないせいか、特に長女にはなかなか友達もできず、学習もはかどらず、学校が楽しくなかったようです。近所に外国籍の子どもたちが住んでいて、彼らはとてもフレンドリーだったので、帰宅後はその子たちとよく遊んでいました。
そして、長女が小学校を卒業する時期になり、行く予定の中学校がかなり遠かったということもあり、それに合わせて名古屋市への転居を決めました。
私はその頃名古屋市で週2回ほどネイルの仕事をしていましたので、通勤に関してはとても便利になりました。子どもたちは、転居前に仲良くしていた友達と離れてしまったので少し気を落としていました。それでも時間が経つにつれ、下の二人の娘たちには友達もでき始めています。ただ、やはり長女はちょうど難しい年齢ということもあるのか、中学校にも馴染めないでいるようです。そういったこともあり、上二人の子は今インターナショナルスクールに進むことも検討中です。
私たちにとって日本で抱える問題は、やはり言葉です。それをクリアしないと友達もできないし、仕事にもつながらないのです。
その点、夫は今、量販店で働いていますが、言葉ができなくても、翻訳機を使って何とかコミュニケーションを取り、うまくやっているようです。初めて日本に来た時は、ウクライナとは全てが違っていて、常に戸惑いながら過ごしていました。が、今ではいろいろなことが少しずつ分かってきて、日本にいることが心地よいと感じることも増えてきました。ウクライナで安心して暮らせるようになるまで、しばらく日本で生活していきたいと思っています。
コープあいち